災害防止女性作文コンクール大賞受賞作品
見えない“おもてなし”
広島県 三登 珠子(有限会社まこと総合企画)
私は、観光旅館で働いています。
パート歴は三年、社員になってからは十五年を過ぎました。最初は清掃係から始まり、食事の提供や売店員等、色々な職種を経験して現在はフロント業務に就き、はや十年になろうとしています。
世界遺産の厳島神社まで歩いて一〇分の好立地にあり、日本全国はもちろんのこと海外からのお客様も多数ご利用になられます。宿泊人数が一番多いのは修学旅行です。中でも小学生がトップを占め、一日に400人もご利用されることもあります。
小学生はとても元気でにぎやかですが、その分問題も起こします。同宿の他校から、「上の階の○○校が騒がしい。」と苦情が出たり、「部屋の襖がやぶれた。」、「備え付けのコップを割った。」等、お決まりのパターンの繰り返しです。それでも大切なお客様であり、楽しい思い出をたくさん作って大満足してくれるのです。
ところが、そんな中、小学生が大けがをして救急車を呼んだ、という連絡が入りました。長く働いているといろいろなことが起こりますが、その事故は今も鮮明に心に焼き付いています。
それは、大浴場でのことです。修学旅行での入浴は、学校毎に貸切時間を設け、決められた時間内に交代で利用します。一回転の平均が二〇分ですので、ゆっくり入っている余裕はありません。「大浴場で走り回って転んで、怪我をした。」ということはめずらしくありませんが、この時は違いました。
視力の弱い男子児童が、メガネを外して入浴し、しばらくして再び脱衣所に戻る時、脱衣所と浴室の間にあるガラス扉にまともにぶつかったのです。次のクラスとの交替時間が迫っていたのでしょうか。急いだ勢いでガラスが割れ、児童はそのまま前に倒れたそうです。
事態を知った監視の先生が、顔色を変えてフロントに駆けつけ、救急車を手配し、間もなく児童は搬送されました。
私が現場に入ったのはそのあとです。ガラス扉は真ん中に大きな穴が空き、扉の枠の回りだけギザギザになったガラスが残っていて、床一面と浴室のタイルの上にもガラス片が飛び散っていました。
慎重に、手で破片を片付けながら「これは大変なことになった」と思いつつ、児童のことが心配で心配でたまりませんでした。
そして後日の連絡では、幸いなことに命に関わることもなく、大事に至らなかったとのことでした。ホッと胸を撫で下ろしながらも、心待ちにしていた修学旅行で危険な目にあい、怪我まで負うという悲惨な結果になって本人はもちろんのこと、ご家族や関係者の方々のご心痛を思うと私達施設側にも多大な責任があることを痛感するのでした。
なぜこのような事故が起きてしまったのか、その原因と対策についてじっくりと話し合いの場がもたれました。
直接の原因は、視力の弱い児童にとってそこに透明なガラス扉があることが認識できなかった。間接的原因は、慌ただしく入浴を済ませなければならない児童にとって前方をしっかり確認する余裕がなかった。
具体的な対策としては、ガラス扉があることが一目で分かるよう、透明な部分に色のついた模様や線を入れる、ということになりました。
入浴時間については、ゆとりを持てるよう時間延長するのはなかなかむずかしく、決められた時間の中で、手順よく慌てず落ち着いた気持ちでご利用いただくようお願いし、浴室内に 「滑りやすいので走らない」等の注意事項を表示することにしました。
対策はすぐに実行に移し、それから六年経った現在まで、大浴場での事故は起こっていません。
もう一つ、一般のお客様の事故もありました。入館時、玄関前の段差でつまずき、転んで手の骨を折ってしまったのです。玄関でのお迎え時には、「段差があります。お気を付けください。」と、必ずお声掛けをしていますが、それでもつまずく人はゼロにはなりません。そしてとうとう、お客様に骨折という怪我を負わせてしまったのです。予測できる事故は、起こるべくして起こりました。
さっそく、2センチ余りの段差を緩やかなスロープに変える工事をしました。
バリアフリーが重要視される中、大きな事故につながる前に直しておくべきだったと悔やまれます。
今思うと、いつかはこのような事故につながることを予測できたのです。それなのに誰も気づかず、気に留めることもなかったことが私達の最大の過ちであり、大いに反省するところ です。
日常、目にしているさりげない場所に、実は落し穴があるのではないか、毎日の繰り返される業務の中にも、見えない危険がひそんでいないか……を常に意識するよう心掛けねばなりません。
旅館という接客業は、常日頃から「おもてなし」に力を注ぎ、サービス向上を目指しています。しかし、それ以前に大切なことは、お客様に安心してお泊りいただき、お客様の安全をお約束できる宿であることが、何よりも最優先なのです。
私達は、お客様のかけがえのない命を預かっているという大きな責任があります。そのことを今一度振り返り、色々な角度や立場から安全とは何かについて、スタッフ一同真剣に取り組み、徹底して再認識しなければならないと心に刻むのでした。